Les indiennes de Nîmes






アンディエンヌ」について
アヴィニョンとアルルの間にある町、ニームで、アンディエンヌ・ド・ニーム・ミストラルは、その誕生の地であるプロヴァンスにある、古くからの純
プロヴァンス産生地メーカーです。
16 世紀末に、最初の「染色」生地がインドから交易路経由で輸入され、プロヴァンスに到着しました。このプリント生地は大人気となったため、
17 世紀の後半、プロヴァンスでの製造が始まりました。
しかし、この始まったばかりの産業は、1686年にルーヴォア(ルイ十四世時代の政治家)によって禁止されました。この新しいプリント生地のメーカー
が、王室が経営する衣料品メーカーの直接の競争相手となったためです。プリント生地メーカーの製品の方が値段が安く(分厚い織物ではなく、綿で
あったため)、その明るい色彩の方が人気があったのです。この禁止から逃れるために、プリント生地メーカーたちは、アヴィニョンにあるベネチア地
区に移りました。ここは、ローマ教皇領で、フランス王室の支配下ではなかったためです。
そして、新しい産業が生まれ、繁栄しました。この特権が認められた領地では、800 人以上が「アンディエンヌ」生地(その起源から名づけられまし
た)製造のために雇われていました。
1734 年に、国王とローマ教皇の間で交わされた契約によって、この黄金時代は終わり、すべてのプリント生地の製造と取引は完全に禁止されま
した。
1758 年に国家財務総監は、「国外からのプリント生地の製造/ 取引禁止により発生した問題と、衣服が安価でなければ入手できない貧しい臣民の
不便を認識」し、フランス国内では73 年ぶりに生地の自由な流通を認めました。
これが、今日では「プロヴァンサル生地」として知られている生地の復活であり、アンディエンヌ・ド・ニーム社の起源でもあります。


プロヴァンス

「プロヴァンサル生地」という名前は、イタリアに近い地中海沿岸のフランス南東部の地方「プロヴァンス」に由来しています。この地方が「プロヴァ
ンス」と名付けられたのは、イタリア以外では最初のローマ帝国の州(プロヴィンス)であったためです。プロヴァンスはフランスの中でも美しい地方で、
オリーブ園、ラベンダー畑、ケシ、ヒマワリ、蝉、ローズマリーで知られています。この地方は、古くからの村が数多く残っており、美しい風景だけでなく、
さまざまな歴史と文化が人々を惹きつけます。ピカソ、ヴァン・ゴッホ、セザンヌ、ルノワールなど、多くの画家たちも、創作へのインスピレーションを
求めてプロヴァンスを訪れています。
プロヴァンス >> カマルグ
カマルグはプロヴァンス地方の一部で、フランスのアルルの南にある、二つに分岐したローヌ川と地中海に囲まれた三角州地帯です。930km2(360
平方マイル)を超える広さのカマルグは、西ヨーロッパで最大の河川三角州地帯です。大きな塩湖または「潟」が散らばる広い平野で、海とは砂州で
隔てられており、その周囲は葦が生い茂る沼地です。さらにその周囲は、広い耕作地となっています。
カマルグの約3 分の1 は、湖または沼地です。中心部であるヴァカレス湖沿岸は、貴重な野鳥の楽園であることが認められ、1927 年から地方公園
として保護されています。2008 年には、より広大なカマルグ地方自然公園に統合されました。
カマルグには、ほとんど街と呼ばれる街がありません。その「首都」はアルルで、ローヌ川が2 つの主な支流に分岐している三角州の北の端にあり
ます。それ以外に街と呼べるのは、45km ほど南西にあるサント・マリー・ド・ラ・メール、西の端のプチ・カマルグにある中世の城砦都市、エーグ・
モルトだけです。
カマルグには、400 種類以上の鳥が生息しています。その塩湖は、ヨーロッパでは数少ないオオフラミンゴ生息地です。沼地はまた、多くの種類の
昆虫にとっても重要な生息地です。特に知られている(そして悪評の高い)のは、フランスで最も危険な数種類の蚊です。また、カマルグ牛とカマルグ
馬も有名です。カマルグの植物は、特に海水のある環境に適応しています。ギョリュウと葦のほかに、シー・ラベンダーやアツケシソウが数多く見られ
ます。
人々は何千年も前からカマルグに住み、排水路、堤防、水田、塩田を築いてきました。カマルグの外側の地域では、農業用の排水路が整備されて
います。カマルグには、その名の由来であるカマルグ種の馬がいます。ガーディアン(牛馬の番人)たちは、この有名な白馬に乗り、この地方の闘牛
用の牛や羊を育ててスペインに輸出しています。

プロヴァンス >> カマルグ >>ガーディアン

ガーディアンたちは「マナド」(アメリカのranch(ランチ)に該当)という牧場で働いています。「マナディエ」はマナドの
持ち主です。マナドでは美しい風景の中で、放牧されている牛や馬を見られます。ガーディアンとは、マナディエを手伝って、
家畜を選んだり、その世話をしたりする人々です。
ガーディアンたちは、その生まれと文化に誇りを持っています。その一人である「フォルコ・ド・バロンセリ・ジャヴォン」
(1869 年11月1日~ 1943 年12月15日)は当時、ル・マルケ(「侯爵」)と呼ばれており、カマルグに移住して、サント・マリー・
ド・ラ・メールでマナド・サンタンコ(「聖なる群れ」)と呼ばれる牛の群れを育成しましたが、フランス人の作家であり、酪農
家でした。勢力のあるガーディアン(いわば、プロヴァンスのカウボーイ)であった彼は、南フランスのカマルグ地方の伝統
的な生活様式と文化において重要な人物です。彼はサント・マリー・ド・ラ・メールに住居を定め、マス・ド・ラマレという「マ
ス」(伝統的な牧場の家)の住人となりました。
1905 年にアメリカのロデオ・ショーの一行がニームを訪れた際、フォルコはジョー・ハンマンに、次いでバッファロー・ビ
ルに会いました。仲良くなった彼は、自分のガーディアンたちを彼らに協力させ、バッファロー・ビルのカウボーイやインディ
アンのショーに出演させました。最も重要なことは、彼がカマルグ固有の文化を守り、育てる上で意欲的に活動したことです。
フォルコは、初期の「クルス・カマルゲーズ」(カマルグ地方の闘牛)の成文化にも関わりました。この闘牛は、雄牛の頭から
バラの花を取るという方法で行われていました。彼は、純血種のカマルグ牛の育成に大いに力を入れていました。彼が育て
たプルヴァンソという牛は、特に気性が荒いことで有名です。
1909 年にフォルコは、カマルグの伝統を守るために「ナシウン・ガルディアノ」(「ガーディアンの国」)を設立しています。
「ル・マルケ」は、より強い印象を与え、「シューポ」(オック語の「ガーディアンのグループ」)の結束が固くなるように、す
べてのガーディアンがきちんと制服を着用するように命じていました。
1938 年にアンディエンヌ・ド・ニーム・ミストラルは、ル・マルケが取り決めたガーディアンの規範のすべてに従った伝統
的な制服を製作する会社のひとつになりました。

ラ・ヴェスト // ジャケットは濃い色のベルベット製で、首周りと前立ては、光沢のある濃い色のブレードで縁どられ、胸ポ
ケットが付いています。ベルベット製で丈が短く、非常に細身のこのジャケットは、パラティーヌと呼ばれ、アミアン(フランス
北部の都市)から伝わったものです。赤いサテンの裏地が付いています。
ラ・シュミーズ // シャツの生地は麻または綿で、馬に乗りやすいように、大き目のゆったりしたサイズです。制服の場合は、
フラップ付きポケットが胸に2 つあり、襟は閉じることもできますが、開けたままで着られることが多く、これがガーディアン
たちのお気に入りです。気温が高めの夏でも必ず長袖で、ガーディアンたちは肘の上までまくり上げて着ています。シャツは
非常に色彩豊かで、その柄は市松模様や小さいインド風の模様(蚊、小さい蜂、小さい水玉、ペーズリー柄など)です。
ル・パンタロン // ズボンの生地は、1 平方メートルあたり450g のモールスキン(綿100%)です。このズボンの特別なデ
ザインと重量は、ガーディアンたちが馬に乗っているときに非常に役立ちます。このズボンをはいていると、とても安全なの
です。馬の動きによる摩擦で肌を傷めることはありません。デュピュイ氏は、膝を細め、裾を広め(約22cm)にデザインして、
靴が隠れるようにしています。

モールスキンは、非常に古くからある生地で、丈夫で耐久性に優れているため、農民たちに使われていました。

ガーディアンたちに語り継がれている、ニームまたはギゴーニ(アルル)のティボー兄弟は今でも話題に上ります。イヴァン・
デュピュイは、だれもが知っていた小さな工場で、最初に工業的な方法で染色を行った人物です。
1938 年に、ル・マルケの友人であったレジー・レイノーは、ニームのカリエール・ロメーヌ通りにある工場で40 人の従業
員を抱えており、「ミストラル」というブランドのついたジャケットをガーディアンたちに供給していました。これらのジャケット
は、リュネル市のカミーユ、アントニッチ、そして、サント・マリー・ド・ラ・メール市のヴィルヴィエイユの各店に納入され、
現在も非常に有名です。
この事業は、レジーの孫のレジー・リテールに引き継がれ、その後、2007 年4 月にフレデリック・ロッシュに買収されました。
現在は、彼が、伝統を守る最後のメーカーです。